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清水焼
叶道夫さん
清水焼は、京都・東山を中心に発展した焼き物で、繊細な絵付けや優美な形状が特徴です。茶道具や日常の器として長く親しまれ、時代とともに多様な表現が加わってきました。三代・叶 松谷、叶道夫さんは、京都市立芸術大学で陶芸を学び、伝統的な京焼の技術に現代的な感性を加えた作陶を行っています。伝統を守りながらも、現代の陶芸の可能性についても挑戦し続けています。

古いようで新しい

考古学から焼き物へ

―子供の頃、家業の清水焼の職人として働くこととは別の道を考えていた。

今年で77歳になります。「松谷窯」の「松谷」っていうのが、家の屋号、つまり窯の名前やね。ちょうど2000年に僕が3代目を襲名して今までやってる。この窯自体は100年以上経ってるんやけどね。



高校2年の時まで私は考古学をやりたかった。高校までは考古学の勉強をずっとしていたんやわ。高校2年の時、おじいさんが死ぬ時に、枕元に呼ばれて「考古学の中に焼き物もあるで」と言われて「僕も焼き物をしあかんのかな」って思って。それから方向転換して、芸大 [1] に行って焼き物をしようと思って。



そやし、ほんまに大学に入ってから焼き物をやり始めた。大学に入ったら「お前、陶器屋の息子やし、作り方全部知ってるでしょ、教えんでもええやろう」と言われて、何も教えてもらえんかった。いろんな話やらでも「陶器屋の息子やしもうええやろう」ということで聞かせてもらえなかった。そやし、同級生の人よりは、たくさんいろんなものを読んだりしてたと思う。古いのが好きやさかいにね、昔の古い文献を読んだりとか。自分らの時は同級生が7人だけだったけどね。



[1] 京都市立芸術大学

―1960年代から1970年代にかけ、大学では学生運動が盛んに行われていた。

実は僕らの時はね、革マル [2] とか中核 [3] とかそういう学生運動があって、アンチ芸術みたいな運動もあった。大学にいた先生は身の危険を感じたのかなんか知らんけれども、学校に来んようになった。ほぼ1年間、僕らの担当の先生はヨーロッパに行ってはったし。そやし、2回 [4] 、3回生の時には先生は、ほぼほぼ授業やらへんかった。授業はもう実習や。先生は4回生の時に帰ってきはって。



その時に鈴木先生に「8年勉強せい」って言われて。それに加えて先生のところで教えてもらった技術で、お礼奉公って言って、さらにプラス2年、先生のところの職人として尽くさなあかん。先生の運転手したりとか雑用もしながら、仕事は朝から晩まで、先生の下仕事とか、兄弟子に教えてもらったりとかして。ただ単純に8年は長いなって思って、自分の中で勝手に5年だけ頑張ろうって思って。やっぱり5年って自分で決めた方がギュッて集中できるかなと思って。



[2] 960年代後半から1970年代初頭にかけて日本各地で起こった学生による社会運動のこと
[3] 革命的共産主義者同盟全国委員会、通称、中核派。日本の新左翼党派の一つで、学生運動の中心的な役割を担った。
[4] 主に近畿地方の大学で用いられる学年の数え方

清水焼とは

―清水焼とは何なのか

なんでもできるのが清水焼。京都の場合は京都に都があったので、当然人口が多いわね。そしたらたくさん物が売れる。地方の職人さんが地方の土を持って京都へ出てきて焼いて売れば、早いことお金になる。商売ができる。そういう人が九州とか瀬戸とか、いろんなところから京都へ出てきて、その土を使うて仕事をして。いろんな種類の焼き物が京都にできたわけ。それをずっと今も続けてるのが清水焼。



素材とかに関しても決まりがない。例えばこの清水焼は瀬戸のもの。これは唐津のもの。これは山口県の萩のもの。そういうふうに、全部、その地方の土で焼いてるわけ。例えばこの清水焼と唐津焼をどう区別するかというと、唐津焼きの上に京をつける。京唐津、京瀬戸、京萩。上に京をつけたら京都っていうことがわかる。そういうふうにいろんなものが焼かれてたね。



―京都では粟田で焼き物の土が採れたという。

京都は粟田の方でしか江戸時代に土が採れなかった。いわゆる粟田焼きの土。これは同じ土で、違う焼き方でこういうふうに変化する。京都の場合はほんまに地方から色々入ってきて。どういうふうに地方のものと区別するかということで、京都はこういう意匠がものすごく発達したわけ。

職人と窯元の違い

―職人と窯元は、異なる役割を担っている。

職人というのは絵付けができたらそれでいいんだけど。僕らは職人さんに製作お願いする窯元や。窯元ということは、色んなことを知っていないと新しい焼物ができない。新しいものができないと売れない。売れなかったら職人がいなくなる。窯元は、職人さんに次に作るものをお願いするためにどうするかを考える。それが窯元と職人の違い。



職人というのは昔からそうだけど、その道一筋。逆に、絵を描ける職人が「こんなかたちを作りたい」と思っても、かたち作りはできひん。でも僕は両方ともする。かたちも作るし、見本*の絵も描く。そうしないと「ここが難しい」「ここをこういうふうにしてくれ」っていうことを窯元として職人さんに言えない。



―京都では粟田で焼き物の土が採れたという。

京都は粟田の方でしか江戸時代に土が採れなかった。いわゆる粟田焼きの土。これは同じ土で、違う焼き方でこういうふうに変化する。京都の場合はほんまに地方から色々入ってきて。どういうふうに地方のものと区別するかということで、京都はこういう意匠がものすごく発達したわけ。



[5] 職人が器を作る際に見本となるもの。 新しく器を作るときには、まず初めに見本を制作する。

職人と窯元の違い

―技術は職人さんと同じ場所で仕事をすることで身につけた。

僕は朝9時から5時まで、職人さんと同じ時間帯に働いていて、職人さんの隣で仕事をしていた。こういう仕事は先輩の職人さんの仕事を見て、「盗む」いうたらおかしけれども、勉強する。「陶芸」という言葉がある。陶器の芸。「陶芸の“とう”は“盗む”やで」という人もいる。そやし、横で一緒に仕事をしているのはその人の技を「盗んでいる」わけ。そういうふうに横に並んで一緒に仕事するのが僕の勉強になる。昔はそういうふうに横に並んで、技を勉強してた。



でもこの頃みんな、自分の考え方に固執するようになった。大学で学生に教えてても、そうやもんね。例えば道具一つにしても「これみんなで使うんやで、ちゃんとしてよ」って言っても、自分だけ使ったらほったらかし。「そんなのあかん」って言ってね、焼き物は共同作業やからね。



―昔は共同作業で器を作っていた。

昔は窯詰めるにしても、電気窯というのがなかったので、のぼり窯だった。のぼり窯に詰めるのは、みんなで詰めないと、大きな窯がいっぱいにならない。みんなで詰めたら、今度はそれを焚く人、その薪を割る人、みんなそれぞれ分業やった。


そやし、のぼり窯あるときは薪割り専門の職人さん。毎日朝から晩まで薪を割らはる。一つののぼり窯を焚くのに3000束とかの薪がいる。その分、割れたら一日、二日休んで、次の登り窯のとこ行って、また薪を割らはる。のぼり窯でやっているときは、窯詰めに行ってうまいこと焼けたら、「うまいこと焼けたね、どないしてやってん」って、そこで情報をいろいろ交換したりできたけれども、それが今は電気窯で焼けるようになっているから、そういったコミュニケーションがあまりない。



[6] 陶磁器を焼くために丘や斜面に階段状に作られた、複数の焼き窯のこと。
[7] 薪を針金で束ねたものを一束と言う。

アートと食器

―日常使いする食器は長く残る。

食器は日常使いやし、いわゆるアートと比べると、立場は低い。アートのほうが優れている、みたいに思われているけれども、僕に言わせるとアートって逆に一過性のもの。ここで作ってる食器は普遍的なもの。どっちが格上とか、格下とかとも違って、一過性か普遍性の違い。アートは、その時に生きている人の感情が結びついたりしているわけ。いわゆるアートというやつは、みんな、ええな、ええなと持ち上げはる。その時はいいけれども、その時代が済んだら全然出てこない。でもこういう食器はずっと今まで残っている。料理人さんとかは京焼 [8] の食器のほうがずっと好きだと思う。こういうかたちで清水焼はずっと伝わっている。



[8] 清水焼のこと。



僕は昔からある食器も作りながら、新しい時代に楽しく食事ができるような食器を作る、ということを考えながら、新しい見本を作ったりしている。



例えばこういう食器。模様自体は古い昔からある模様だけど、その扱い方によって、いろいろ楽しいことができる。日本人ってパーティーとかで初めての人と会ったとき、喋るのが苦手でしょ。そんなとき、喋る話のきっかけとしてね。自分が食べ終わったと。そしたら、隣の人が柄が続いた食器を持ったはる。そしたら「あれ、おたくの食器と、こんな風に繋がりますね。」という話のきっかけができる。そういうようなことができるように、と思って考えたのがこの食器。考えてみたら、いろんなことがまだまだできる。



―機械で作る食器と、手作業で作る食器には違いがある。

こういう四角いもの、昔はこういう四角いものをまっすぐに作るのが上手なのが職人さんや。でもそれは最近は機械が作る。僕は一旦四角を作って、少し、いびつにすると言うか、柔らかいかたちになるように動かす。いかに人間が手を使ってものを作っているか、ということが分かってもらえるようなものを作る。一言で言うと、機械で作れへんようなものを作ろうとしている。そこにはやっぱり人間の感情なり、そういうものが入ってこんでくるわけです。



新しさ

―長い間伝わってきた食器も制作するが、新しい試みも行っている。

夢枕獏さん、天野喜孝さんと僕で展覧会をした。夢枕獏さんは陰陽師とかの小説を書いてる人。天野さんはファイナルファンタジーの初代のキャラクターデザインをやった人。この3人で展覧会をした。これは小説家の獏さんが書いた文章を読んで、僕がかたち(食器の形)を作って、それにデザイナーの天野さんが絵を描く。



獏さんが書かれた物語は、楊貴妃がテーマで。楊貴妃が死んで400年の時に、昔の友達を呼んで晩餐会をしようという物語。この場面にこんな食器を作ったらいいな、とかいう内容は文章には何にも出てこない。それを読んで考えて、この文章やったらこういう食器やな、というふうに、かたちを作った。



こういうふうに、いろんなことをしているし、伝統的なものも考えられる。昔はこういう染め付けとかね、こういう青いものだけだったけれども、今は、昔からのものだけとは違って、西洋で使われているような緑の絵の具も使ってみる。この緑のものを使いだしたら、こういう色は食器の世界に今までなかったし、料理人がすぐ飛びついた。そんなふうに、いろんなことを取り入れるいうかな、それだけ僕はアンテナを張ってるつもり。

京焼というか、京都自体、古いもんだけではないし、古いようやけれども、新しい。

聞き手 | 木下 快

2025.5.21

職人図書で掲載している聞き書きは、話し手の語りに耳を傾け、聞き手との対話を通じて構成されたものです。語られた経験や価値観、そのときどきの思いを、できるかぎりそのままの形で伝えるよう努めています。記述は、語り手と聞き手それぞれの視点に基づいているため、歴史的な事実や一般的な見解とは必ずしも一致しない場合があります。

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松谷窯

窯の近くが「小松谷」と呼ばれていたことから名付けられた松谷窯。京都で開窯し100年以上、京料理を支える焼物を生み出す窯元です。高度な技術と柔軟な発想で器を作り続けています。

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