育てる人
思いがけず職人になった
津田功。功(いさお)です。成功の功です。昭和24年、7月27日生まれ、76歳です。
―最初は京都に来るつもりも、西陣織の職人になるつもりもなかった。
高校卒業して単身で愛媛県から京都に来て、京都の亀岡の工場に入社した。うちの会社(渡文)が募集してたのと、うちの親戚が糸商をしていて、糸をうちの会社に売っていた。あと高校にも案内が来ていた。
最初は自衛隊になろうと思ったんやけど、自衛隊は僕のクラスから既に3人いた。それも柔道と剣道をやってる子だったから、資格があるわけ。僕は何もないわけ。あと身長が足らないって言われてた。僕は身長が160cmやけど自衛隊や警察官になるには160cm以上でないとあかんって。僕は160cmはあったけど。
昔は全部自分でやった
―西陣織が完成するまでにはたくさんの工程があり、その一つ一つに専門家がいる。今その工程を全てこなせる職人は津田さんくらいだ。
最初に図案というのが必要で、うちの会社でも作るけど、図案家というものがいるわけです。その図案を図案家から買ってきて、それを方眼紙に写して、意匠図というものを描いていくわけです。それを元に紋紙 [1] を作って、糸の準備をする。そしてその糸を染めます。そのあと糸を整えるんですけど、それを整経と呼びます。顔を整えるのは整形、こっちは糸を整える。その糸を織屋に持ってくる。この会社はこの工程の中の織るところだけをやっている。織ったあと、整理加工というのはまた全部別の会社が担当する。図案から帯が完成するまでは1年くらいかかる。そのうち織りの工程はなんぼ早く織っても1ヶ月はかかる。
僕が若い時は全部の工程をやっていた。昔は月給制じゃなく、一反おったらなんぼで給料がもらえた。僕は手織りも機械織りもできる。給料計算も全部やって、元々は工場長の仕事も兼ねていたけど、工場長しとるよりも織っとる方が好きだった。今は僕は織りだけを担当しているけど、昔は糸も配色も全部していた。 今は配色は全部任せているけど、その子には頭が上がらん。
―技術が身に付かなければやめさせる。
今は入社した時点で、この子はここに回そうって配属が決まる。だから今の子は、これはできるけどあれはできない、ということになる。織りを担当する新入社員は3年目で技術が身についているかどうかを見極める。2年間は自由自在に練習をさせて、3年目で身にならないようならやめてもらう。織りではない違う仕事をさせるとか、違う部署に行かせるとかね。3年目以降は作った織物は全て売り上げる。だから最初の2年は練習で、3年目からは「売り物」になる織物を作れるようにならないといけない。[1]を作って、糸の準備をする。そしてその糸を染めます。そのあと糸を整えるんですけど、それを整経と呼びます。顔を整えるのは整形、こっちは糸を整える。その糸を織屋に持ってくる。この会社はこの工程の中の織るところだけをやっている。織ったあと、整理加工というのはまた全部別の会社が担当する。図案から帯が完成するまでは1年くらいかかる。そのうち織りの工程はなんぼ早く織っても1ヶ月はかかる。 [1] を使う時はありますけど、あとはハサミがあればできるんですよ。だからほとんど場所も取らへんし。ナイフとか小刀があったりという危険な刃物はなくて、ハサミだけですから、結構うちは家内工業 [2] で、家職人さんは長いこと仕事をしてもらってます。一度覚えるといくつまでも仕事ができる。うちの職人さんは「非常に長いこと仕事させてもらってありがとう」と言って。80歳超える人もやってはりましたから。僕のちっちゃい頃なんて、会社の近くに、80いくつの職人さんのおばちゃんが住んだはったりして。「あんたも大きなったな」「あんたが小さい頃、あんたのおむつ変えてやったっで」ってよく言われました。
[1] 図案を織るために用いられる穴の空いた型紙。機械織りの場合、紋紙もしくはフロッピーディスクに図案の情報を記録し、ジャカードと呼ばれる織機で織る。
仕事への責任感
―織りは楽しいものというより、責任を持ってやり遂げなければいけないもの。
集中したいので、見学者用に織りを見せるときと、売り物を織るときでは場所を分けている。20色ぐらいの糸を使うので気を抜いては間違った糸で織ってしまう。数字だけを何番、何番と数えて、集中しないと上手に織れない。あの子かわいいねとか、 そんなことを考えてるようでは織れない。
やっぱり織りが楽しいというよりも、綺麗に織れているかということをずっと考えている。織れるまでは不安もあって、何事もなく無事に織れたら良かったねと安心する。問題なく出来上がって、これやったら「売り物」にできると。 そんなことを考えてるようでは織れない。これが「売り物」とただの「オリモノ」の違いだと思う。
ただの「オリモノ」は誰でも作れるけど、普通の人は「売り物」を作ることは出来ない。僕らは「売り物」を作っている。見学に来たお客さんが織りの体験をしに来るとき、織ってるのは「オリモノ」であって「売り物」ではない。それを売るには何年もかかるわけです。そんなことを考えてるようでは織れない。
―初めて大きな失敗をしてしまった。
西陣織を 56、57年織ってきたけど、初めて裏表逆 [2] に織ってしまって、そんな失敗は初めてした。傷とかそんなんはあったけど、裏返しにやってしまったのは初めて。自信満々で織って、全部織れた後に失敗に気づいて、ほんまにショックで夢にまで見た。僕は普段仕事は絶対家に持ち込まないっていうやり方なんですが、それだけはずっとショックだった。
[2] 西陣織では、織物の裏面を表に、表面を裏にして織り進める。糸の下に天井向きに設置された鏡を通してしか、表面を確認することはできない。
つくる。また、つくる
―昔は週5日仕事をして、残りの2日は畑仕事をしていた。今は週2日仕事に来て、残りの5日は畑にいる
結婚してからすぐの時は亀岡に住んでいて、入社して5年後に本社に移動した。今は亀岡にも本社にも行ける高槻に住んでいる。昔は土曜と日曜が休みで、平日5日間働いていたけど、コロナ以降、週に2日だけ出勤する今のスタイルになった。朝は基本7時半かくらいにきて工場を開けて、朝から夕までずっと帯を織っている。会社に見学者が来ているときは見学者の案内をすることもある。
休みの日は畑で過ごす。27種類くらい野菜を育ててる。亀岡に住んでいる時から土日は畑に行って野菜を育てていた。それが趣味で楽しみ。やっぱり野菜をつくるということと、帯をつくるということは、「つくる」という点で一緒だよね。やっぱり愛情を込めないと野菜も本当には育たない、そういう感じで共通点があるんでね。親戚とか近所に持って行ったり、今日も会社に持ってきた。今日はサニーレタスと、白と黒のきゅうり。近所付き合いはよくしていて、昨日も近所のところに野菜を持って行って、留守だったから玄関にかけておいた。
―教育者として。
上手くできていたら「上手くなってんやん」って、それはやっぱり言ってあげんといけないと思う。僕は褒めたい。僕の上の工場長は褒めない人だった。「見て盗め、それは罪にならないから。」っていう人だった。昔の職人はみんなそういう教育方針。教えることはしない。だから僕は誰も先生がおらん。自分で見て、ああだこうだと学んできた。でも、今の若い職人たちには見て盗めとは言わない。わからなければ教えてあげて、その子達が自分でああ違うかと覚えて、そうやって学んでいる。最近では「逆に僕に教えてよ」と言っている。
―伝統工芸を受け継ぐ人たち。
ケイちゃんという女の子がいるんだけど、「ケイちゃん教えて」って、近頃は僕が聞きよる。「津田さんが教えたことやんやないの!」って言われるけど、いろんなことをやってきてるから覚えてないこともある。その子は30代くらいかな、高校卒業して京都の舞鶴かどっかの工芸の学校で学んでここに来た。その子のことは入った時からずっと面倒を見ている。伝統工芸士 [3] というのは後進を育成することが役割だから。その子には僕が今やっている仕事を全部受け継いでいけるように教えている。京都の祇園祭の大船鉾も、江ノ島神社の御神体の夏物の着物も、今後はその子が作る。彼女は伝統工芸士の資格も去年とったから、その仕事たちはこれからも安泰だと思っている。
―しかしまだまだ引退はできない。
ずっと次の仕事がある。西陣織に関することはなんでも僕に相談が来るから、 どうしたらいいかって。僕しか知ってる者はいないから、僕が引き受けるしかない仕事がまだまだたくさんある。ケイちゃんは織るだけやったらある程度できるけど、それをどんな機械で織ろうかとか、そういうことを考えるのはまだまだ。今も納期が決まってる仕事があって、今一番頭にある。ほんまに歳やから、引退したいよ(笑い)。
[3] 経済産業大臣指定伝統的工芸品の伝統的技術・技法を有す者の称号。全国で約3,300名(2025年2月)おり、伝統的技術・技法に熟練していることが認定され、後継者の育成や産地振興などの役割を期待されている。伝統的工芸品の製造地域における製造実務経験を満12年以上積んだ上で、実技試験・知識試験・面接試験に合格することが必要。(津田さん取得時は満25年)
聞き手 | 高見陽香
2025.6.5
職人図書で掲載している聞き書きは、話し手の語りに耳を傾け、聞き手との対話を通じて構成されたものです。語られた経験や価値観、そのときどきの思いを、できるかぎりそのままの形で伝えるよう努めています。記述は、語り手と聞き手それぞれの視点に基づいているため、歴史的な事実や一般的な見解とは必ずしも一致しない場合があります。